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温 敬銘老師と劉 玉華老師

温 敬銘宗師

 

はじめに

近代から現代に至る中国武術界を語る上でに欠かせない人物の一人に、故・温 敬銘(Wen- Jing Ming)老師がいます。
温 敬銘老師は戦前の有名な国立南京中央国術館で活躍され、1936年のベルリンオリンピックという公式の場で初めて中国武術を披露した武術家として知られ、或いは北方の拳技・綿拳の奥義を修め、六合大槍、銬手翻子、三合剣法など伝統武術、シュワイジャオ、擒拿、博擊に深く通じ、また武漢体育学院武術教授、中国武術協会副出席などの重職にありながら武術人材の育成、多くの研究論文の発表と文字通り文武双全を実践されてきました。
八十余歳でお亡くなりになるまで中国武術界の重鎮として、その普及発展に務めてこられた温 敬銘老師の武術生涯、その人物像を紹介してみたいと思います。

 

武術好きな少年

温 敬銘老師は1905年、河北省レイ県の貧しい農家に生まれました。このレイ県は昔から武術の盛んな地であり、清朝末期に起きた義和団運動にも多くの県出身の拳師たちが参加したといわれている。
義和団が鎮圧され、拳師たちの多くは各地に逃れていたが、清朝が倒れ中華民国が建てられると、一人また一人と郷里に戻りはじめ、レイ県も再び練武の活気を取り戻していった。
年齢的に当然ながら温 敬銘老師は義和団運動にかかわっていない。ただ幼年期の性格を形成していく上で、レイ県に漂う武の伝統や正義を尊ぶ気風に強い影響を受け、戻ってきた拳師を師に武術を学び始めたのは7歳になった頃であった。
練習には大変に熱心であったが、ただ敬銘の両親、時に父親は武術を学ぶのに良い顔をしなかった。それは家が貧しいため・・・練習をするほど腹はすき、靴もボロボロになる・・・それら練習にふさわしい条件がなかったからだ。また早年の義和団の鎮圧の際、多くのレイ県義士たちの鮮血で河が真っ赤に染められた残酷な記憶もその理由のひとつであり、将来ひとり息子が武術と関わることによって何か災いを引き起こさないかという不安もあった。
ある冬の晩、敬銘は練習を終え、家へ帰ると母親は「寒くなかったかい」と優しかったが父親の口調は激しかった。「小喜太(温 敬銘老師の幼名)、また練習に行ったのか、今度練習に行ったら足をへし折るぞ」。
翌晩、父親の見幕を聞いた小喜太を可愛がる親戚の者や武術を学ぶ近所の友人たちがなだめにやってきた。「なぁ兄弟、あんたも知っての通り、我々武術をやるものは武徳を第一としている。決して喧嘩や権力をかさにきていじめるためのものでもない。小喜太を俺たちに任せてくれないか・・・」ある者は「うちの叔母は手が器用だから靴ぐらいいつでも作ってやれるよ」また小喜太の仲間も「お腹がすいたら高梁(コーリャン)餅を半分わけてあげるから・・・」。これにはさすがの父親も折れざるをえなかったようで、こうして温 敬銘老師の練習は翌日から再開されるようになった。
当時、敬銘の学んでいた拳術は特に立派な名のつくものではなくいわゆる地方拳術であったかもしれないが、連日の練習の積み重ねはしっかりとした基礎を身につけさせ、武術の追求はいつしか人生の目標にまでなりつつあった。

 

名師に会い中央国術館に学ぶ

綿拳名師、羅 成立をはじめて見たのは敬銘の学ぶ武術館にてであった。羅 成立が武術館を訪れ、請われて綿拳と六合大槍を表演し、見る者たちを驚嘆させたが敬銘もはじめてみる絶技にあっけにとられていた。
羅 成立は隣県の博野の人であり、裕福な家の出で、小さい頃より武術を酷愛し、また文墨にも通じており、人々より羅大槍と称され尊敬を集めていた人物であった。
温敬銘がこの名高い老師に近づくことができたのは中学に通い始めた頃だった。その中学の校長は大の武術好きで時々学校内で武術の表演会を催したり、自らも健康のためにと練習していたが、羅大槍の噂を聞き礼儀を尽くして学校に招き、手ほどきを受けていた。
この名高い武術家に一手でも教わろうと集まって来る若者たちも少なくなかったが、その中で一挙一動真似ようとする熱心な少年の存在に羅老師も気づかないはずはない。しかもその少年の基本功夫には並々ならぬものが感じられた。興味を持った羅 成立老師は声をかけてみたが、以来二人は師弟関係となり、温 敬銘老師は正式に羅 成立老師に拝師した。
師の教えをよくまもる小喜太の”聞鶏起舞””自強不息”の16年が過ぎた。
1933年、敬銘は英気にあふれた28歳の青年になっており、レイ県ではすでに名の知れた武術家になっていた。ちょうどその年、南京の中央国術館は第二回国術国考(試験)を挙行して入門者を募集していたので、羅老師はこの愛弟子を連れて南京へと向かった。
中央国術館は伝統武術の保存と発展を目的として、1928年、国民党政府の所在地であった江蘇省南京市に設置された武術の専門組織であった。その指導陣には各地より招かれた名人、達人あるいは武術研究者たちがいたが、入門者募集の規定も非常に厳しいものだった。試験内容は散手、短兵、シュワイジャオなどがあり、試合の模様は当時の新聞に「国術場成了闘鶏場」と報じられたそうだ。
敬銘は試合の結果、最高級特級の一級練習員の資格で入門が認められた。また羅 成立も館長の張 之江に招かれて国術館にて教授することになった。

 

『天下無敵』を倒す

敬銘が入門して程なく、自称”武芸に精通した”という男が中央国術館へやってきた。その男は傲然とした態度で張 之江館長に面会を求めて、言った。
「俺は仕事を探しに来たのではない。相手を探しに来たのだ」
接客していた教務所長の
「あなたは何を得意としているか」
の問いに、その男は、
「俺の槍と剣は天下無敵である」
と自信満々に答えた。
「あなたの言う天下無敵とは?」
「俺のこの槍は四本の槍と同時に渡り合うことができ、八方の相手を制することができる」
教務所長はその思い上がった態度に内心カチンと来たが、それを抑えて張 之江館長に電話を入れた。張 之江の返事は、
「よし、直ちに誰かをその男と立ち合わせろ」
であった。
敬銘とその男は槍(試合用のもの)を構えて向かい合っていた。その男は敬銘の槍ですでに三回突かれて息があがっていたが、面子からもなかなか降参しなかった。
四度目は敬銘が先に突き出した。相手は”拿”で防ぎ、敬銘の胸部をめがけて突いたが、敬銘はそれをかわし、槍を身体にぴったり寄せ、全身を小さく震わすようにして相手の槍を左方向へはねた。すると相手は大きく体勢を崩し、ちょうど後ろを向かされるような形になった。そして再び体勢を立て直そうとするその瞬間を敬銘は逃さず、槍を猛然と突き出し、その男は地に崩れていった。
この勝利は敬銘にいくらかの自身を与えた。だが羅 老師は愛弟子が小さなことで驕るような小人物にならないようにと、度々敬銘をつれて旧知の老武術家たちを訪ねて行き、話しを聞かせたり、手合わせをさせ、”天の上にはまた天がある”ことを常に論した。

 

ベルリン五輪で喝采を浴びる

1936年、世の中の雲行きがなんとなく怪しく感じられる頃であったが、この年、第十一回オリンピック大会がドイツのベルリンにて開催された。その頃、中国国内ではすでに国民党軍と共産党軍の激しい国内戦が展開されており、とてもスポーツどころではなかったが、それでも陸上競技等、数名の選手が派遣され出場した。
しかし試合成績は・・・当時の国情から当然かもしれないが・・・惨敗であった。だが中国チームがさらに惨めだったのはオリンピック村での孤立、そして主食用の米を売って帰国の旅費に当てるなど・・・二十世紀初頭中国の蔑視的な呼び名”東亜病失”を思い出させた。
こうした暗い状況の中で、ささやかではあるが明るいニュースが中国人の人々に入った。
それは十名から組織された中国武術代表団のエキジビジョンゲームでの特別演武であった。
その代表団の一員であった敬銘は張 文広(現・北京体育学院武術教授)と空手奪槍を、そして単独で綿拳を演じ、海外の初めて中国武術を目にする人々はそのスピード、技の巧妙さに驚嘆し、会場は多くのフラッシュがたかれ、拍手喝采の渦に包まれた。
敬銘の演じた綿拳は河北省を中心に伝わる拳術で、その攻防の特徴の相手の動作に這うように伸縮自在に動き、力を無化にするため別名を「延手」とも称されている。
綿拳の套路を見る限り柔軟性、平衡能力が重視されているのが分かるが、勁道は剛、柔、滑、綿、抖の五つに大別される。また抖臂、履麻辮、抓空、揉木球など独特の訓練法があり、機敏な動きや鋭利な感覚を養成する。
また空手奪槍といえば、現在行われているものを見ると表演性偏重のためか、槍を持つ側がはずして突いてくれることがなくもないが、当時は喉や腹を狙って突き、重要なのは対練を通して得る技術であったようだ。

 

武術の現代化に努力

ベルリンからの帰国後、敬銘は中央国術館にのこって指導に当たり始め、中央国術館の開設した国立国術体育専科学校の国術部主任となる。三十七歳の敬銘はベルリンでの代表団の一員であり、査拳や双刀で知られていた河南出身の女性劉 玉華と結ばれ夫婦となる。
1955年から敬銘は劉玉華と共に創立したばかりの武漢体育学院にて武術の指導を行い始め、武術の研究、教育に力を注いだ。また国家体育委員会委託の「武術競技規則」「中国シュワイジャオ規則」の制定や大専院校(総合大学と単科大学)系通用武術教材の編纂、そして散打試合の体系化を進めていた。
革命以前の中国各地にて行われていた武術家同士の立合い、敬銘が青年期に実践していた試合というのはルールらしきものはなく、中には”打死無論”(打ち殺しても構わない)というのも少なくなかった。敬銘の課題は”打死無論”を如何にして安全性があり、中国武術の特色を発揮できる散打試合として体系化させるか?であり、これは日本武道における「剣道の防具」「柔道の畳」の採用と共通するものだろう。ただしルールや防具の採用は、それに伴った”副産物”が生まれてしまう可能性も大きく、この議論は今日に至るまで続けられているようだ。
またこの時期、敬銘は招かれて軍隊の中で、兵士たちにも指導を行った。その兵士の何人が、ある日トラックで食糧の運送中に武器を持った強盗たちに襲われる、ということがあったが、逆にあっという間に強盗たちを捕り押さえてしまった。敬銘の指導した内容は伝統武術ではなく、一般的な擒拿格闘術であったが、その実用性の確かさに兵士たちは感激し、軍隊での指導期間の終了後も師として敬い、部隊幹部も武漢に立ち寄る際は必ず敬銘の家に挨拶に訪れた。

武漢時代に劉玉華老師に指導を受ける 宮平先生

 

伝統武術に捧げた一生

温 敬銘の武術に対する情熱を表すエピソードは多い。
1960年代初め、中国が大きな自然災害に見舞われ、深刻な食糧不足となった時期があり、それはいつ治まるか予測がつかなかった。体力の消耗を避けるため、体育学院の学生たちの実技トレーニングも一切停止するという決定が下されたとき、敬銘は、
「我々が幼少の頃、食事さえ腹いっぱい食べることができなかったが、練習をとめることはなかった。今、なぜそれができないのか?」
「武術の人材を絶やしてはいけない」
とまだ中学になったばかりの息子の温 力(現・武漢体育学院副教授)に練習を続けさせた。
四十歳にして授かった息子に、万が一何か過ちがあったら・・・・・と忠告してくれる人もいたが、
「(例え死んでも)武術授業発展のためだ」
と答えるのみだった。
また文革は伝統武術家たちも迫害を受けるという苦しい時期であった。イデオロギー問題からも武術の体操化、アクロバット化は進められ、花拳綉腿(派手なだけで内容のない武術)は頂点を極めつつあった。敬銘は武術界において、すでに発言力を持つ位置にあったが、
「武術の姓はあくまでも”武”である」
との一貫した主張は、この時代においては自らを逆境に追い込むことにもなった。だが心の中で尊敬の念をこめて敬銘の言動を見守る武術家たちも少なくなかった。
四人組を粉砕され、国内も落ち着きを取り戻してきた1979年、74歳になった敬銘の地位も復活し、中国武術協会副出席、全国体育科学学会理事に選ばれ、また国家級武術裁判員の称号を受けた。
晩年の温 敬銘はよく孔子の”加我数年、五十以学{易}”を引用して”加我数年、完成{三件事}”と語っていた。
一つ目は武術家教授として武術人材を育成することでもあり、敬銘は三期の武術研究生を卒業(修士学位取得)させた。巣立っていった者たちは優れた論文、書籍などを発表し、武術の学術的研究で大きな成果を挙げている。
二つ目は自身の生涯の研究を整理し、武術界の後輩たちに残すことで、{短兵術}{中国式シュワイジャオ(張 文広氏との共著)}等はすでに出版されたが、整理中の物に{六合大槍}{綿拳}{金考手翻子拳}{三才剣}{昆吾剣}及び{散手}があった。
これらは文革の影響で整理、出版が遅れてしまったが、敬銘は時々周りの者たちに「この生涯にわたって集めた資料を、私と一緒に「骨灰盒(遺骨を納める箱)に入れることのないように」とユーモラスに語った。
三つ目は大きな構想の実現、つまり中国武術を世界中に普及させることに尽力することであった。
この”三件事”は必ず実現させたいと、現場を離れずに努力し続ける覚悟であった。最後まで・・・・・・。

この貢・武術(うーしゅう)<福昌堂>1992年夏号にて発表

温 敬銘老師との想い出を宮平先生にいくつかお聞きしました。

宮平先生が温 敬銘老師に初めて会われたのは武漢体育学院を訪れた1983年秋頃で、正式に武術留学が決まり(武漢体育学院は総合体育大学であり、その中に武術学科がある)、そこで体育学院主催の食事会が催され、学院長や研究生部の先生方とともに同席された温 敬銘老師と初めて対面なさったということです。まさに邂逅の瞬間です。

温 敬銘老師に関しては“現代中国の伝説的な武術家”と方方から聞かされていたことから、対面する前は鋭い眼光をされた屈強武術家のイメージを持っていたそうですが、お会いした第一印象はたいへん物静かな気品ある方だったということでした。食事の席で他の方々は陽気に話されるのに対し、温老師は寡黙で、また武術の話題になっても他の人の話しを微笑みながら聞くだけであったそうですが、戦前から中国を代表される武術家として活躍されていたというイメージとのギャップに、宮平先生は逆にとても迫力を感じたということです(同時に日本と中国はかつて歴史的に戦争という不幸な時期があり、温老師も抗日戦争など体験されているわけですが、そういった事情から日本人である自分に本当に教えていただけるのか・・・といった気持ちもあったそうです)。

初めての指導を受けた際、「以前やっていたものを見せなさい」と言われ、空手の型を演じると「先ずは(このやり方は)忘れなさい」と言われたそうです。そして力を抜くことと立ち方の指導が行なわれたそうです。そして初日の練習を終えてから“教えたものはここ(武術練習場)だけでやるのではなく、どんな場所でもできる・・・、根気強く続けること・・・”を言われたということです。

体育学院というところは全国からスポーツエリートたちが集い、ある者はオリンピックを目指す・・・といった環境だそうですが、そんな中でも温 敬銘老師と劉 玉華老師の練習に対する厳しさは学院内でも有名であったそうです。体育学院では毎朝五時半からの早朝練習が義務付けられ、選手たちや学院生たちは宿舎前に添え付けられたスピーカーから大ボリュームで流される音楽に(叩き)起こされるのだそうですが、選手たちが起きるその時間には温老師と劉老師はすでに練習をひと通り終えている・・・といった具合で、こうした生活を晩年までずっと続けられていたということです。

宮平先生が練習にも序々にも慣れてきたある日、相手の突きに対して肘に貼りついてしまう防御練習を学んでいた時、次の日に違う動作を練習していた宮平先生を見て、温老師は「昨日の動作はもう出来るようになったか・・・」聞かれたので宮平先生が「出来ました」と答えると、いきなり温老師の突きがガツン!!と顔面に飛んできたそうです。切れた唇を押さえて宮平先生が唖然としていると、温老師はひと言「出来ているんじゃなかったのか・・・」と言われて去って行かれたそうです。宮平先生はそれ以来、「出来る」という言葉の“使い方”が、もっと言えば考え方そのものが変わってしまったという・・清末から民国時代にかけて温老師が厳しい時代背景の中で武術練習を積まれていたことを感じさせるようなエピソードです。

中国滞在中の宮平先生は、体育学院の暇期を利用して他の武術も見るために各地を訪れたそうですが、武漢を離れる前、温老師は宮平先生に「腕を伸ばしなさい」と言われ、腕の筋肉(上腕三頭筋のあたり)に触れて「練功を怠るとすぐに筋肉の質が変わってくるんだよ」と言われたそうです。

昔気質というのか温老師はあまり多くを語って説明されたり、注意をされることはなかったそうですが、そのことを表すエピソードがあります。ある日、宮平先生が拗歩拳(逆突き―――地面を蹴った力を膝、腰、背、肩・・・と伝える)の指導を受けていた時、以前学んでいた空手の組手のクセがどうしても出てしまって後ろ足の踵が上がってしまうことがあったそうです。(フルコンタクトカラテでよく見られるようなフォーム)。それを練習中に出してしまうと温老師は二度までは注意されたそうですが、三度目は注意がなく、何も言わずにそのまま立ち上がって帰ってしまわれた・・・ということもあったそうです。無言のプレッシャーが感じられるような風景ですが、しかし、宮平先生はこの時以来、踵が上がるクセは消えてしまったそうです。

温老師のような頂点を極められた武術家となると、その数々の武勇伝を聞きたくなるのは私だけではないと思います。例えば、温老師が青年期を過ごされた武術之郷・河北省時代のこと、戦前の中央国術館の国術国考(入門試験)で勝ち抜かれた試合の様子、ベルリンオリンピックでのデモンストレーションのこと、一説によると国民党時代に要人の保?(ボディガード)をされていたこと、戦後は武漢体育学院に指導のため赴任した後のこと・・・。そのことを宮平先生にも伺ったことがあります。しかし、その答えは意外なもので、宮平先生は温老師ご自身、或いは劉 玉華老師からも一切聞かれたことがないということです(但し、他の先生方が話すのを聞かれたそうですが)。温老師や劉老師はどちらかといえば武勇伝の類いを話されることを好まれていなかったようで、例えば、ある雑誌が温老師の生涯を“読み応え”があるように脚色して超人的に描かれていたものを「武術に誤解を与える」との理由でご子息の温力老師(現武漢体育学院教授)に命じて出版側に注意させるといったこともあったようです。

一人の武術家として国家より《中国体育開拓者》の栄誉を受け、体育学院教授として武術教材の編纂、試合競技規則研究の中心となり、様々な大会の総審判長、中国武術協会副主席の重職をつとめられるという頂点にありながら、一方で晩年に到っても誰よりも練習熱心であられたということを考えると、武術の真実とは地道な日々の訓練にあることを気付かされます。そのことに気付いて以来、我々も表現の仕方によっては如何なる内容にも変貌してしまう武勇伝より、日々の練習の積み重ねだけを重んじるようになった次第です。

 

中国を代表される女性武術家・劉 玉華宗師

 

劉玉華老師と空手奪刀を練習する 宮平先生(武漢時代)

 

  • 1916年、河南省開封に生まれる。
  • 1923年、地元の武術拳師・孟 広泰、何 福同老師より武術を学び始める。
  • 1929年~1935年、河南省武術比賽、第16、17、18回華北運動会、旧中国第6回全運会武術比賽において多くの優勝、及び上位入賞を果たす。当時、すでに南京中央国術館の上級練習員となっていた劉 玉華老師はすでに女性武術家として全国的に名が知れわたるようになっていた。
  • 1932年、中央国術館を卒業。翌年、国術国考にて“国士”の称号を得る。
  • 1936年、第11回ベルリンオリンピックにおいて、10名からなる中国国術代表団の一員として参加し、表演を行なう(そのメンバーは後に生涯の伴侶となる温 敬銘老師を始め、四川の鄭 懐賢老師、北京の張文広老師・・・女性では劉 玉華老師の他には後に台湾に渡られた傅 淑雲老師などから構成されていた)。
  • 1937年~1940年代後半まで漢口国民体育師資訓練班や国立国術体専にて指導にあたる。
    中華人民共和国が成立した後は、武漢体育学院にて武術指導にあたる。一方、指導する立場でありながら、50、60年代まで全国民族形式体育表演大会、全国観摩交流大会はじめ数々の試合に選手として出場し、優勝や一等を獲得する。その後は指導に専念し、全国の体育学院《武術》教材の編集にも参加する。
    劉 玉華老師の著書には《飛鳳双剣》、《少林闡頭禅拳》などがある。
  • 1985年、長年にわたる功績が評価され、国家体育委員会より、“中国体育開拓者”として栄誉賞を授与される。
  • 1988年、“武術貢献”を授与される。
    武漢体育学院武術教授として武術研究生に指導にあたるかたわら、中国武術学会委員、湖北省人民代表、省政協委員、中国武術学会委員などを歴任。
    様々な伝統武術に精通される劉 玉華老師は、特に双刀術、査拳においては中国武術界最高峰の一人としてその名が全国にとどろいている。

宮平先生は温 敬銘老師とともに劉 玉華老師にもマンツーマンで学ばれましたが、我々も劉老師に関するエピソードをいくつか聞いています。劉老師が幼少期を過ごされた河南省開封というところは少林拳、太祖拳といった拳法がたいへん盛んで、幼き頃の劉老師が青年たちの中に混じって7、8歳の頃より沙袋を叩いたり、散打練習をさせられたり・・穴を掘ってその中から飛び出す跳躍訓練に明け暮れたり・・師匠が棒を持って見張っている中で長時間、馬歩站木庄に耐えたり・・と聞いて、まるで武術映画の一シーンを想像させました。
面白かったエピソードは、体育学院の訓練場で宮平先生と兄弟子にあたる鄭 旭旭先生(現在は福建省で散打を指導。体育大学武術教授)が劉老師から指導を受けていた時、見知らぬゴツイ男たちが10名ほど入ってきて、劉老師を尋ねて来たそうです。その場に居合わせた他の者たちも「何事だ・・・」とザワザワし始め、宮平先生と鄭先生が対応して用件を聞いても、無愛想にそのまま劉老師のところへ向かって行ったので、「これはっ・・・」と二人が走って追いかけたところ、その男たちは劉老師の目の前でいきなり全員が膝をつくように腰低く、「大前輩(大先輩)!」と挨拶されたそうです。聞けば、全員が他省の査拳門の方々で、その年の全国武術観摩交流大会が武漢で行なわれたので、査拳門の大先輩として劉老師を表敬訪問した・・・とのことでした(その場に居合わせていない我々が想像してもすごい貫禄を感じます!)。
こうしたエピソードからいかにも“女傑”といったイメージがあるかもしれませんが、宮平先生によれば劉老師は知らない人が見れば凄い武歴を持たれる武術家とは思えないほど普通の“お婆さん”という感じだそうで、指導に関しては厳しかったそうですが、武術を離れればとても優しい方だったそうです。