【以交手会友】武を志す者同士が(手を交えることを以て)友人となる・・・門派、流派、あらゆる武術、格闘技の枠を超えた交流をもつことの大切さ。
自分自身と向き合い、真の武術や本質を追及していくことへの想いがここにあります。
武の本質
武の本質とはズバリ護身にあります。そもそも“武”という字には暴力を止めるという意味が込められています。つまり武である以上、あらゆる状況での戦い――多人数との戦い、武器を持った相手との戦い、足場の悪い状態での戦い、狭い場所での闘い・・・など――に対応できなければなりません。
つまり護身から論じた場合、(たとえ勝たなくとも)、敗北は許されないということです。一方、技術向上から論じた場合、武道家は自己を高めるためにいろんなタイプとの交流、つまり他派との交流が必要ではないでしょうか。中国武術他門派をはじめ、伝統空手、フルコンタクト系空手、レスリング、柔道、合気道、柔術・・・など、ありとあらゆる武術、格闘技との交流です。
武術における戦いとは“武”である以上、実戦が想定されていますのでルールが存在すべきではありません。ですから金的への攻撃、目潰しなど護身には有効な急所への攻撃を含む、いわゆる何でもありです。
今日では数々の武道の試合が開催されています。試合というものは武道家、特に若い選手たちの目標達成、精神鍛練という意味でも必要不可欠なものだと思います。とはいえ競技試合である以上ルールというものが存在します。このルールに無意識のうちに慣れきってしまっては――競技における格闘と現実の実戦を混同してしまってはいけません。ルールに作られた戦い方しかできないと、いざというときに対処ができなくなってしまいます。
例えばある打撃格闘技の試合では顔面への突きが禁止、或いは関節技や投げがありませんし、投げ技主体の格闘技では打撃がない・・・など、実戦では必要とされる技術が封印されています。もちろんそれら格闘技はルールを限定することにより、競技技術レベルを向上させてきたことは充分に理解できますし、逆にいえば危険なルールで試合を行なっているからといって、必ずしもイコールレベルの高い技術とは限りません。しかし、現実問題として実戦になれば打撃、投げ、関節・・・どころか、多人数、武器使用・・・と無限の攻撃が予想されます。試合ルールに慣れてしまって自由な発想を失ってしまうと、いざという時に対処できなくなってしまいます。
試合の経験を積まれている武道家、格闘家の中には、このことを重々承知されている方もいるでしょう。このことを質問すると
「試合ではルールに従うが、いざ実戦となれば危険な技も使用する」
という方がよくいらっしゃいますが、果たしてそうでしょうか?・・・。やはり実戦を想定した稽古を行なっていないと対処するのは困難ではないかと思われます(当然、自分たちの経験から、そして様々な実例の存在をもとに――柔道をよくされる警察官が刃物を持った相手に刺され殉職etc――話しているわけですが、それらは“格闘競技”ではない生々しいものなので、あえて紹介はしませんが・・・)。
試合成績を最優先して練習を行なうことは個人的な志向ですので、我々がいちいち否定すべきものではありませんが、武の本質ということからいえばかけ離れていると言わざるをえません。武の本質を見極めるためにはやはりルールを越えた交流が必要だと思います。(念のため付け加えておきますと他派と交流をしなければ本質が見極められないと言っているのではなく、あえて武術観の違う者同士が手を交えることによって多くの勉強ができると考えているのです)。
交流は実戦を想定する以上、いうまでもなく打撃あり(突き、蹴り、肘、膝、頭突き・・)、投げあり、関節あり、急所あり(目突き、金的・・・)を含むべきだと思います(もちろん急所への直接加撃は危険ですので、課題に応じて防具が必要ですが、とはいえ全く衝撃を感じない防具では“加撃された”という意識が持ちにくいのでその辺の兼ね合いは考慮しなければなりません)。こうした経験を積んでいけば理屈抜きに必ずや自らの欠点に気付くことができると思います。
一方、こうしたやり方で行なっていると怪我人が出てしまうから・・・という方がいますが、危険な技を練習することと怪我をさせることとでは意味が違います(天行健中国武術館の散手練習は実際に目突きや頭突き、金的ありで、また対武器、対複数・・・も行ないますが、危険性のある練習ほど細心の注意を払っており、怪我人はむしろ少ないほうだと思われます)。
こうした金的ありの練習をやり始めた頃は、空手部出身であった私(下地)も必死に抵抗してくる相手に当てることが容易でないことを思い知らされました(私も例にもれず、空手部時代は金的蹴りなんて“卑怯な技”は試合でこそ使わないが、いざとなれば命中させられるものと勘違いしていた次第です・・)。そこでどうすれば確実に当てることができるか・・・、逆にどう防ぐか・・・を考えさせられ、その結果、構え方、意識の持ち方をはじめ、いろいろなことが変わりました(変わざるをえませんでした)。
“ルールを設けない(既成概念を取り外す)”ことで勉強させられたのは空手出身の私だけでなく、例えば天行健中国武術館門下生の後輩の一人(柔道有段者)は実戦練習において、対戦した相手(初心者)を寝技で絞めようとしたところを噛みつかれていました(苦笑)。ちなみに柔道経験者と対戦した相手は以前に特に武道経験はありませんでしたが、逆にいえば武道経験がなかったがゆえに“噛みつく”などという発想(?)ができたのかもしれません(噛みつくだけならまだしも実戦であれば隠し持っていたナイフで切りつけることも考えられます)。また別の組み技格闘技経験者の後輩が複数を相手にした練習の際、一人を上手く寝技に持ち込んだものの、もう一人の“敵”が後頭部を武器で攻撃・・・といった体験も受けています。
また別の後輩は以前にフルコンタクト系を経験していたからか、相手の突き、蹴りに対して、全身を固めて身体で受けるクセがなかなか抜けなかったので、対ナイフ、対鉄パイプ・・・といった方法でも行なわせており、試合と実戦が全く異なるものであることはいやが上にも気付いていると思います(こういった練習はあくまで護身という立場から行なっているものです)。
現実には有効な技術を危険というだけで練習せずに封じ込める行為は、実戦で封じ込めていることと同じであり、使用することなど不可能に近いと思います。むしろ最悪の状況を想定して有効といわれる練習を積むことにより、危険な技とは如何なるものかを知り、また自己の防衛にも繋がると思われます。
私個人(下地)は中国武術の門を叩いてまだ10余年で浅学なのはいうまでもありません。武術というものは格闘競技というよりは兵法、広義で捉えれば軍事的発想に繋がるものと思っています。よってその範囲も極めて広くなりますので、ここでは私個人の未熟なレベルで申し訳ありませんが、技術向上という点に絞り、他派との交流の中で気付いたことを話してみたいと思います。
私が気付いた点、それは“自分の得意な間合いに至るまでの過程”です。
それぞれの武術、格闘技には間合いが存在します。例えばキックボクシングの間合いと柔道の間合いは違います。簡単にいえば打撃と投げ技の間合いです。投げ技は打撃の間合いをくぐり懐に入る必要があり、逆に打撃は投げ技の間合いにならないように戦わなくてはいけません。つまり自分の間合いにならないと戦いにくいということです。理想は遠距離、接近戦でもどの間合いからでも相手を制することができればいいのですが・・・両者のレベルに大きな差があればそんなことも可能でしょう。遠距離では相手に有効な打撃を与えるためにフェイントを使うなどして戦略を立てるのが一般的です。接近戦になれば互いに攻撃できる間合いになりますので、相手の攻撃を受けてしまう可能性がありますし、投げ、関節も警戒しなければなりません。そこで課題ができるわけです。
遠距離ではどのような攻撃が有効か・・・、接近戦では相手の攻撃を受けずに攻撃するにはどうするか・・・などいろいろと自分のやるべき事や欠点が見えてくるわけです。それぞれの武術、格闘技には得意な戦い方が存在しますので、その戦いを如何に封じるか・・どのように間合いを詰め、得意とする攻撃に持ち込むか・・・が課題となるのではないでしょうか(それは武器を持った戦い、或いは軍事的規模の大の兵法でも共通するものだと思います)。武の本質とはそんなところにあると思います。
では“遠距離”、“中距離”、“近距離”に対応する・・・この課題をクリアするために何種類かの武術、格闘技を学ぶという考え方があるようです。例えば、打撃なら空手やキック、投げなら柔道、レスリング、関節なら合気道、柔術・・・というように別々に習う方がいます。それぞれの武術、格闘技の得意とする分野を学ぶことで、どんな間合いでも対処できるという発想だと思われますが・・・。
天行健中国武術館で学ぶ在沖米軍人の中には、アメリカで様々な武術流派を学んでいた経験を持つ者もいます。入門当初の彼らは(武術経験がある者ほど)天行健中国武術館で新たなに学ぶ技術を、以前のスタイルに加えてテクニックを増やすという“合理的な発想(?)”をしていることが多々見られます。つまり蹴りはテコンドー、パンチはボクシング、接近戦では推手のテクニックを・・・といった具合です。しかし、何年かにわたって共に練習して「かなり強くなったな」と感じさせる者は、表面的なテクニックを増やしていくタイプではなく、一貫した技術体系で経験を重ねることが重要だと気付くタイプです(宮平先生も我々に他派と交流することは普段から勧められていますが、“付け焼刃”にならぬようにと注意を促されています)。
また、ある観点でいえば武の本質を追求するのは――格闘競技ではない実戦を追及するのは――現代の平和な時代に必要ないとか、或いは護身ということであれば、苦労して武術の習得に時間をかけなくとも他にいくらでも方法がある(武器の使用)・・と考える方もいるかもしれません(実際に天行健中国武術館では常識とされている常に“最悪の状況を想定した考え方、技術内容”に対し、「今の時代にこんな極端な考え方を・・・」と言われるのは武道愛好者の方だけではなく、指導者と呼ばれる方の中にも少なくないことを私自身これまで少なからず接してきました)。
しかし、現代の平和な時代とはいえ、昨今の凶悪事件を見るまでもなく危険な状況に出くわす可能性がないとは言い切れず、降りかかって来る災難に対し、たとえ相手が武器を持っていても、多人数で襲ってきたとしても武道家として精神面を含めて対応することができなければいけないのではないでしょうか(もちろん“武術的発想”がなければいけないという意味です)。一方、「何も苦労して武術の習得に時間をかけなくとも・・・」との考え方に対しては、武術修行を通じて得られるものは決して外敵から身を守る技術だけには止まらない・・・ということを強く理解してほしいと思います。
話しを戻しますが――あらゆる状況の想定とあらゆるタイプとの交流は様々なことを気付かせてくれます。武道家として本質を見つめることは使命であり、後世に伝えるために必要なことです。私たちの交流にはそのような意味も込められています。もしも面子(流派名etc)があるから難しい・・・というのであれば心配は要りません。私たちはそのような小さなことについては気にも留めません。自己の向上に結びつかない面子であれば、むしろ邪魔な存在です。面子という足枷のために武を追求できないというなら歩むことに果たして意味があるのでしょうか・・・。
“武”とは如何に装飾が施されていようとも、一旦事が起こればすぐに現実の結果が出てしまうものです。そして“武”とはひとつの道であり一生追求するものです。もちろん引退という言葉はありません。その意味から最も克服すべき相手は他派の武道、格闘技ではなく、「自分自身」ではないかと思います。
私たちがいう交流とは、勝敗や傷つけ合うためのものではありません。お互いに実際に手を交えて技量を確かめ合うことによって学び合うためのものであり、武術修行とはこうした地道な経験を一つ一つ積み重ねていくものだと思います。
“武”が重んじられている天行健中国武術館では、先ずは“現実”に対応できるような発想を持つことが求められます。入門以前に何らかの武道経験を持つ者でも“現実”を想定した実験を積むことであらためて気付かされることが少なくないようです(当然様々なエピソードがあります)。
例えば、天行健中国武術館では短兵(模擬刀による打ち合い)も行なっておりますが、入門して様々な体験をした後輩の一人(剣道経験者)は、かつてポイントを競い合うような技術に何の疑問も感じていなかったのが、今では「本当に“斬る”には剣に重みが伝わるような身体の使い方をしなければなりませんね・・・」、「刀が相手の身体に触れて引くのは、まさに包丁で肉を切る感覚ですねぇ・・・」といった答えが自然に出てくるのを聞くと、体験を積むことで“健全な方向”に進んだと感じるのは私だけではないと思います。
ここで誤解してほしくないのは、これらエピソードを柔道対中国武術、剣道対中国武術・・・といった狭義で解釈されては困ります。いうまでもありませんが実力とは師匠や流派名etc・・ではなく、本人の研究の程度であり――言い換えれば、いざ実戦となった時に自己を守ってくれるのは権威や肩書きではなく、実力そのものであり――既成概念を取り除くことで様々なことに気付くという修行の過程を強調しているわけです。
私たちが今まで行なってきた交流では相手側のレベルによっては、確かに目や金的にも当てることがありましたが、詳しくは経験上そうなったと言うべきかもしれません。というのは、以前は目突きにしろ、金的にしろ止めていましたので、そのような攻撃を“意識”さえしていない相手だと10発、20発と入れようとも気付いてくれず、(実際、金的の代わりに内股に当てたり、何度も目突きを――代わりに額を突いても気付いてくれず)、その上、交流の後にピント外れなことを言われたりする経験も少なくなかったことから、現在では如何なるタイプの相手にも“充分伝わるような”表現にしている次第です(もちろん気付いてもらえない最大の原因は、余裕をもって納得させうるだけの実力がまだまだない私自身にあるわけですが・・・)。
何度も繰り返しますが、こうした交流は誰が強い・・・どこの流派が強い・・・といったことを目的としているのではなく、全て武の本質を見極めるため、経験を積むためのものだと理解していただければ幸いです(ちなみに目突き、金的の話しが度々出てきますが、我々は目突き、金的を別に絶対視しているわけではありません。むしろ絶対的なものではないことも――特に金的など――これまでの経験から分かっているつもりですが、現状の多くの武道の試合競技ルールでは技術の外にある代表的なものとして取り挙げた次第です)。
私たちと同じ志を持っている方、団体がきっとあると信じています。私たちが学ぶべきものを持っている方々もたくさんいらっしゃると思います。是非交流しようではありませんか!!。中国武術に興味がある、または武の本質を追求したいという方がいましたらぜひ問い合わせてください。請多々指教!!
最後までご観覧いただきありがとうございました。このページは武の本質について意見を述べてきましたが、私自身もまだまだ未熟な修行者であり、このようなことを書くのはどうかと思いました。しかし武の本質を見極めるには交流もひとつの有効な方法だと考えた結果、書かずにはいられませんでした。真の武を志す方からのメールをお待ちしています。
文責・下地 清隆(武術一般部クラス)